私が大学院を辞める理由

ついにこの記事を書くときがきた.

もちろん 数ヶ月後 就職後には新たな気づきなどで 気持ちが変わってるかもしれない.

だが 今ここでまとめておく必要が出てきた.何故ならば就活で聞かれるだろうし 教員に対する説明で 必要であるし,過去の自分が 何を得て 何を失って 前にどうやって進むべきかを今一度振り返っておく必要がある.

はっきり言って 大学院の研究室生活は失敗だった.自分の人生の転換期であったのは間違いない.また過去の嫌な記憶を掘り返すのは非常に苦しいが ここでちゃんと見返しておかねばならない.

ここに書くことは全て事実である.

ことの経緯

研究室配属前

 実験による新たな仮説の検証と理論による説明が,自分に合う,興味があり,得意分野であると判断し,固体材料系の実験系の研究室を志望するようになる.また将来の進路は,アカデミックに残らず企業の技術者,研究者として働くことを考えていたので,なるべく実用研究に近い分野を選ぼうと思った.とある研究室を訪問すると,研究資金もあり,基礎研究から実用化まで推し進めれて,企業との共同研究も盛んに行なっており,スタンスも自分に合っているのがわかった.「拘束時間」という観点ではまあブラックだなってところまでは見抜けていたが,興味があってやりがいがあるならば普通にペイできるだろうと判断した.(そもそも化学系の研究室はどこも拘束時間が恐ろしいことになっている)

 実は他に第一志望の研究室はあった(そこはガチガチの理論でまさに物性化学系であり,物質の熱的,電気的性質を測る,これももちろん興味があった)のだが,学部での成績が足りなかったため(言い訳するとその年は当たり年で学科内でもめちゃくちゃ優秀な人がこぞって応募した)第二志望にまわり,前述の研究室に配属となった.ネタバレになるが,第一志望の研究室の同期は4人中3人が早くに失踪しており,ある意味いかなくて正解だった.まあ俺も失踪したのだが.

研究室配属後:修士1年

  研究テーマ選びについては問題はなかった.

 問題はむしろ人間関係だった.配属後になってわかった,研究室の学生の雰囲気を示す.

体育会系.所属してる学生のほとんどがパリピだし,ガチガチの体育会系サークルの主将を努めてきたような人間ばかりだった.サブカルを好む人間は非常に少なかった.

長く残ることが偉いと思う文化.やることがなければ早く帰っていたがなぜかそれで私の評価がめちゃくちゃ下がった.やることはやっていたし進捗状況も良かったのに.どうも「最後まで残って研究室の片付けや閉めの作業に協力しない」ことが気に食わなかったらしい.

完全な上下社会.実績や実力の有無ではなく年功序列の世界.年下が雑用なりなんなりが発生したら「それに自分から気づいて」やらないと叱責され,また古くから上が守ってきた「お決まりごと」は絶対に正しい世界だった.まあ研究室自体師弟関係のような古い日本社会の体質が濃く残っている文化である.

人格に問題があった.自分の思い通りにならない学生,あるいは自分を気持ちよくさせれない学生には「協調性がない」の一言で人格否定を決めてくる.自分にだけ利するような「協調性」を他人に求めることが既に協調性がないことに気づいていない.その持論を押し通すのにもっぱら使われた論法は「上下関係」だったり,相手を「社会不適合者」として認定することだった.如何にその「人格に問題あり」事例を示す.

 ○同じ研究グループで生じた研究運営上の問題で,新たな装置の立ち上げがあった.その装置の立ち上げは,RAの仕事の一環として,指導教官から給料をもらっている学生に対し指示がなされた.私は同じ研究グループであったがRAの契約はなかった

 もちろん先輩方のみで装置の立ち上げについて議論し,先輩方だけで解決するのが当たり前なのだが,何故か私に「どうしてお前はこの問題を進んで解決しようと協力しないのだ,俺らだけにやらせるな,協力する気がないならお前にはこの装置は使わせない,ペア実験はしない」といった発言をされた.私はRAとかお金の話をしたくはなかったため,「そもそも私は知らされてなかったし,あなた方は私に進捗状況の説明すらなかった.あなた方で全てやっていたではないか.気づいていれば私も同じグループであり,同じ装置を使うことになるのだから問題解決のため協力した」と反論すると「気づかない時点でお前は主体性や協調性が欠けている」との一言.そもそもRAの仕事で上から命令されて動いてる分際のくせに私には主体性を求めるとはどういうことか.こちらとしては研究室入りたてで装置や状況の把握はできていないし,そもそも今回の件以外でも生じた問題は私が気づく前に先輩がとっとと処理してしまうことが多い.根本の原因として「RAを受けているかいないか(これは博士課程に進学する意思があるかないかで決まる不公平要素)」があり,先輩方は研究室の雑用やら研究遂行に必要な作業をすすんでやる代わりに給料をもらっているのだから,自身の義務を後輩に押し付けるならばそれ相応の手続きがあるはずである.もはや何を言っても「言い訳」にしかならなかった.こちらの背景や気持ちを推し量る気はさらさらないし,よりにもよって「他人の研究の足を引っ張ろうとする」という気概さえ感じられた.更にいえば「自分で他人から仕事を奪っておきながら,仕事がなく仕事をしていない人間にヘイトを向けて社会不適合として攻撃するマッチポンプ行為」であり,自分で勝手にイライラして人にヘイトをぶちまけるとんでもない人間性が垣間見えた.また,この件で納得できなかった私は教員と相談すると「後輩にやらせるよりも自分たちで処理した方が早く終わるからそもそもめんどくさい」と普段から言っているというのを聞き,学生は私を教育するという意欲がないことがわかりさらに幻滅した.ヘイトのはけ口にされていただけである.また,この風当たりの強さによって,意図的に私が仕事を全然やっていないなどを言いふらされ,ミーティングで教員の前で炎上させられる事案もあった.(この事情を知っていた教員が見かねて後に私に相当テコ入れするようになったが)

 私にとって「RAの受給の有無(博士進学の有無)」で延々にマウントを取られるし,研究遂行に関連する作業,新たな知見などは全て上だけで共有し,上が勝手に進め,更に私に降ってくる作業はどうでもいいものばかりで,やっても全て無給であり,知識や技術の共有も行われない状況であった.修士課程での研究もこれが原因でノウハウなどを教わることができず,進捗状況もどんどん悪くなっていくのが目に見えていた.結局,修士1年では先輩の再現実験の細かいノウハウは教わることはできず全て我流,全て文献にあたって条件出しに費やされることになった.(おかげで人を信じられなくなったし,全て文献にあたって自分で調べて自分で解決する能力はみっちりついた.末期では装置の使い方も先輩よりも詳しくなっていた)

 ○セミナー発表などで疑問に思った点をいくつも指摘していたが,発表が終わった後に「セミナーなんて教員に対しいい顔をする場」「質問が来ると時間が伸びるし教員から関連の質問が飛んでめんどくさいからやめろ」と言った圧力を受けた.私はもちろん幻滅した.その後セミナーではほとんど質問することはなくなっていた.

 ○組織の愚痴を,組織の中の人に対し言う文化が浸透していた.これは著しく生産性を落とすため決してやってはならない.私に対する愚痴も相当言われてたようである.

 一方的にこちらが要求を飲んで我慢することが頻発し,もはや対等に議論することすらできなかったし,こちらから何か聞きに行くことはなくなっていた.私を教育するつもりのない先輩に聞いてもこちらが不利になるだけだった.「科学者は科学の元で対等」を本気で信じていたのだがはっきりいって幻滅した.修士1年は相当自分の精神をすり減らし,研究室に入った当初のイケイケ感は完全に失っていた.

修士2年

 問題となる先輩の大半は全て卒業し,同じ研究グループの中でも比較的中堅として扱われた.修士1年で地獄を味わったおかげで技術も知識も相当身につき,先輩がいなくても全く問題がなく実験が進められ,むしろ抑圧されることがなくはじめは生き生きしていた.実力や才能を評価されて教授直々に博士後期課程への進学を進められた.同時にRAをやらないかと誘われ,やっていた学外でのアルバイトをやめて研究に専念しつつ給料がもらえる,上から研究に関する雑用が降ってきて自分の経験値になると思い,これを受け入れた.

 博士後期課程への進学を決めた理由は以下の通り.

 ・修士1年でRAの受給の有無でこっぴどく不利な状況に追いやられたため.進学を決意すればRAを受けて研究しながら「他人の仕事を奪って研究室内での発言力を高めつつ」経験値を稼ぐことができた.

 ・単純に民間研究者として研究の道を進むなら博士号は必要だった.グローバル化が進む中,海外で舐められないために博士号は最低限必要だった(ないと損するがあっても得するわけではない)

 ・自分自身の能力は高いと思っていたので,どこまでやれるのかというのが単純に興味があった.

 ・教授の勧め.この研究室の教授は自分から博士進学を勧めることはほとんどないと聞き,それだけ自分の能力が買われていて,向いているんだなと思った.これは以前日記にした「自分の進路を他人の判断に委ねる」悪い癖である.

 修士1年で大きな障壁となった人間関係のもつれは,該当の先輩が卒業することで70 %は解消されていた.(それでも仲の悪い先輩は1人残っていたが) 自分の今後の進路のために必要な投資はいくらでもしたし,学会やインターンシップのような活動も積極的にやった.

 しかし,修士1年で削られた心のダメージは回復しておらず,また蓄積した心身へのダメージにより,あまり気にしていなかった自身の発達障害に由来する特性が牙を剥き始める.当時はまだADHDの診断は降りていなかった(本人が社会生活を送る上で問題にならなければ,障害にはならない) 修士2年になり,卒業した先輩の代わりにやることが増えた.「やるべき仕事が単純に非常に多い」「タスクが多種多様」となり,どこから手をつけていいかわからないし,混乱した.意識が削がれ,集中力も発揮できなくなっていき,期日ギリギリにならないと体が動かないせいで,発表資料などの手直しで先生方から叱られることが多くなった.また,元々持病として持っていた「群発頭痛」がこの一年症状がひどく,群発期には毎朝のように激痛でのたうち回り,研究室に昼から登校したり,薬の副作用で体調を崩し休むことが増えた.この悪循環で,「仕事がたまる」「修士発表に向けた研究が進まない」「心身の状態が悪くなる」「疲労で自分の発達特性が強く現れ仕事が進まない」といったことが重なり,修士2年の11月にはすでに限界を迎えていた.日中歩いているとめまいや聴覚視覚過敏に悩まされ,意味もなく心がしんどくなるなどし,体の異常を感じていた.博士後期課程で受給できる給与型奨学金を3種,及び学振を申請していたが全て落とされ,自分への自信も失っていった.修士発表は修士2年の夏までの成果で乗り切ったが,この頃にははっきりいってひどく疲弊していた.

博士1年

 博士後期課程への入学試験のあと,やるべきことが粗方落ち着いて精神的にも落ち着いたと思っていた.しかし,群発頭痛も収まっていたにも関わらず,夜は眠れない,朝起きることはできなく,遅れて大学にいってもひたすら無気力だった.この頃から,「やらないといけないことがわかっているのに気力がなく体が動かない」「自分自身でものを考えて段取りを組み立てることができない」「調べるだけ調べられるが実行できない」どころか「今日中にやりきらないとならない作業」すらまともにできなくなっていった.心身はもう限界だった.研究室をしばらく休むことを連絡し,泣きつくように心療内科を受診した.結果,「発達障害」及びその二次障害として「睡眠障害」「軽度うつ病」の診断が下り,しばらく休学することになった.限界だった.

 うつ病の根本は発達障害によるものと判断され,発達障害に対する治療薬「ストラテラ」及び睡眠導入剤が処方された.ストラテラを初めて飲んだ時の感覚は今でも覚えている.普段感じていた「生きづらさ」が大きく改善された.何をするにも,自分は人より多大な労力を支払っていることに気づいた.普段意識レベルが低く居眠りしているのも,頭がとりとめのない思考で暴走して集中して一つのことを考えられないのも,情報過多のところで混乱し疲弊するのも,聴覚視覚過敏で意識を削がれるのも,意味もなくそわそわして落ち着かないのも,集中力が外部の刺激で容易に削られるのも,全て薬のおかげで改善した.頭の中の霧が晴れた感覚だった.そして私は,自身の障害のせいでこの20年間人よりも圧倒的に不利な人生を送ってきたことに気づいた.障害に由来する特性で多くの人を傷つけ,また自分に本来得ているはずの利益や機会を逸し続けていたことが耐えれなかった.今更定型に生まれ変わった気分だった.定型の人間が羨ましくて仕方がなかった.自身が今まで気づきあげてきた考えや価値観は全て無に帰した.発達障害を早期に適切に対処していれば,もっとより良い人生を歩めていたはずだ.私は,薬を飲んだ後の自分が受け入れられなかった.どういう顔をして生きていけばいいかもわからなかったし,これからどうすればいいかもわからなかった.過去の経験は全て意味のないもの,トラウマになり,思い返すことはできなくて,将来どうすればいいかの根拠をどこにも求めることはできなかった.そして,発達障害は遺伝しやすい」事実のせいで,自分が発達障害として生まれてきたことを,親の責任として捉えるようになった.心のどこかで,親も発達障害なんじゃないかと疑い,親を憎み始めたとともに,親を憎む自分が憎かった.こうして,私は,ストラテラによって定型っぽくなった自分を受け入れることができず,過去の自分も受け入れることができず,どうすればいいかもわからず,ただひたすら現実逃避を続け,無為に生きる引きこもりと化した.

引きこもり生活(療養)

 引きこもり中はとにかく自分がしたいことをやった.ひたすら寝たし,ひたすらゲームはしたし,意味もなくテレビも見たし,家の猫と遊んだりした.とにかく,自分があの修士生活で受けたダメージの回復が優先だった.そのためには,とにかく研究室から離れ,休むことが必要だった.

 現実世界での拠り所を失った私は,居場所をゲームに求めた.ひたすらゲームして遊んでいた.自信が欲しかった.一つのことを誰よりも極めて,イキリたかった.そうでもしないと自分が壊れてしまいそうだった.ゲームしている時は辛い現実から逃げることができた.

 ネット上で何とは言わない創作活動をしていたのだが,それを機に自分を応援してくれる人が増え,私を中心とまでは言わないが,人脈が広がり,そこそこコミュニティが大きくなった.自分の居場所ができた感覚だった.自分を求めてくれる人たちがたくさんいた.コンテンツを作るのに費やした時間より,それを消費してくれる人々の時間の方が多くなり,自分のおかげで人にエンターテイメントを与えられていると実感することができた.そこで出会う人々は自分より若かったが,全く気にせず遊んでくれた.本当に楽しかった.また私は無限の時間があったから,人の問題を解決するために努力し,感謝された.人脈は広がり,私をきっかけに繋がったおかげで,ネット恋愛を始めイチャイチャし始めるカップルまで現れた.本当に多くの人から感謝された.こうして,私は少しずつであるが,精神的に回復し,自分に自信を持つようになっていった.発達障害として生まれてきたが,薬を飲んだ後の自分も,人に感謝されるようなことができるし,感謝される喜びを思い出し,自分の価値を少し見出せるようになっていた.

 そのうち,ゲームや創作活動をしていると何故か辛くなるようになってきた.自分は,こんなことをしてる場合じゃないのか.もっとやるべきことがあったんじゃないか.人の問題に首突っ込むほど自分に余裕はなかったはずだ.やるべきことが済んでいないと,気持ちよく遊べないんじゃないかと.この頃から,自分の抱える問題を解決しなければならないと思えるようになった.こう思えるようになったのは,完全に凹んでいた頃の自分を支え,応援してくれ,助けてくれた人々のおかげだった.憎んでいた家族も,私が家で療養してることは温かく見守ってくれた.みんな私のことを応援してくれているのに,俺はこのまま落ちぶれていてもいいのかと,心の底から思えるようになっていた.そして私は,支えてくれていたみんなに感謝したい,そのためにも前を向いて頑張らないとならない,この引きこもり状態から脱しないといけないと決意した.

研究室に戻るか,就活か

 引きこもり生活を始め,やっと前が向けるよう回復したころには既に博士1年の12月となっていた.後2年本気で研究すれば,一応留年とかせず卒業は出来ると思っていたし,実際教員もその意見だった.博士号を取る選択はあったが,しかし私は乗る気ではなかった.博士を取れたとしても,それは「教員や研究室がめちゃくちゃ応援してくれて取らせてもらった博士号」でしかない.とったとしても必ず後ろめたい気持ちが自分に残り,自信を持って博士を名乗ることはできないだろう.私は,そんなものは必要ないと感じた.今の自分は,「肩書き」や「自分が他と比べて優れているかどうか」は重要でないと思えた.今私が求めているのは,「自分に自信を持ち,堂々と胸張って幸せに生きること」である.社会人になってから博士号を取りに戻ることは許せるが,こんな中途半端な形で手に入れる博士号に価値は見出せなかった

 私は就活をすることに決めた.既卒で明らかに不利であるのはわかっているが,この困難を乗り越えるために妥協なく努力し,見事就職できた暁には,この就職活動を通して自分に自信をつけることが出来ると思ったのだ.私が「自分に自信を持ち,堂々と胸張って幸せに生きる」ための第一歩として必要不可欠である.そして今,晴れて就活無職と化した私は,図書館に引きこもり,日々自分と向き合っている.